光と陰について

光の当たる部分じゃなくて、陰の部分だって活かしたいし認めてほしかった。

 

私が社会で生きていくにあたって、光の当たる部分がある。

光の当たる部分には、常に笑顔で社会性があり、人当たりがよく、ほどよく明るく、OAスキルが普通よりは高めで、バイタリティがある自分がいる。

 

では陰の部分には何があるか。常に何かに集中していたい自分。興味のあること「だけ」はとことん突き詰めて、ほかはどうだって良いと思ってる自分。実はあまり人に興味がない自分。実は海外で暮らしてみたいと思ってる自分。

海外で暮らしてみたいと思っている割に、英語を頑張りきれていなかったり、中途半端になっちゃってたり・・・。そういう意思が弱くて、飽きっぽい部分だって、持ってる。

 

どっちが本当の自分っていうのは、たぶん無い。どっちも私の構成要素なんだろう。ただ、光を当ててきたか、きていなかったかの違いだけで。

 

光の部分だけでも十分生きていけた。光の部分は、わかりやすかった。だから日本の会社とうまくマッチした。表面上、仕事がうまくいくレベルでは、人に好かれた。

でも生きているから、隠し持ってた陰の部分だって活かしたかった。私はどちらかというと陰を活かしたかった。自分自身がそのことを認められてなかったから、陰の部分に引きずられて、体調が悪くなったり、精神が病みかけたりしたんだろう。その結果がバセドウ病だった。

 

バセドウ病を境に、陰の部分ととことん向き合ってきたように思う。陰の自分を表に出し始めた時、人間関係は変わった。それまで認めてくれた人に嫌われたり、距離を置いたり。

でも前の自分に戻るよりは良いな、と思ってやってきた。

 

ちょうどバセドウ病で会社を休み始めたのが約1年前。手術が終わってようやく動けるようになったのが半年前。そこから、必要なものと不必要なものを選別して、不必要なものに割く時間を極力捨てた。

捨てた結果が、語学の資格であったり、海外転職に手が届きそうだったり。陰の自分が欲しい、認めてほしいと思っているものだった。

一方、光に支えられることもあった。たとえば海外転職のエージェントさんと話すとき、光の自分を活かした。だから、光の部分を嫌うことも無いのだなと思った。

 

そして、本当の欲求はもっと奥底にある。もっともっと自分と向き合いたいと思ってる。その結果とんでもないことになっても、予想外のことになっても、それでもいい。

こんな風に28歳から始まる人生だってあっていい。今はそう思う。